バレエコラム バックナンバー 21〜30
| [☆バレエコラム21] - 化粧 Cosmetic 宇宙 - |
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![]() 化粧 コスメ (Cosme) の語源は、ギリシャ語で秩序だった、整った、宇宙、秩序ということ。派生して、 コスモス(cosmos )宇宙、秩序ある体系、コスモポリタン(cosmopolitan)世界人、世界主義、国際的。 この反対語は カオス (caos) 混沌。 「一流の顔」という本があります。著者は元NHK美粧師 岡野宏さん。 NHKの美粧室でのメークを通して「人」の姿が語られています。 作家井上靖氏が、シルクロードの先の地カブールやバーミヤンの奥地で、コスモという言葉に出会ったと聞いた 著者は、チベット山間の小さな村を訪ねたとき、祈祷師が化粧をし顔を変え、宇宙に祈り病人を癒している場に 遭遇し、その祈祷師から「コスメ→宇宙」を感じ、その言葉の起源を目の前に「見た」そうです。 古代から人々は、神を求め讃えるために踊り、神に近づきたくて化粧をしてきました。 呪術では、目や口、開口部は邪悪な魔力が入り込みやすい場所と考えられ、邪悪な霊が身体にはいりこむのを 守るための化粧がなされていました。 私たちのバレエでも、化粧は踊るためにとても重要なものです。その役になるため、なりたい自分に近づくため、 そして舞台に立つ前の精神集中という意味もあるように思います。 化粧が流行したのは、バレエの生まれた時期と重なり、イタリア中世の終わりからルネサンス期にかけて。 キリスト教的な束縛からの解放とともに、女性が化粧をしないでいることが稀となりました。 美女の条件が語られることが流行のようにもなったそうです。 十万人もの人にメークを施してきた筆者が、化粧を通じ感じたこと。 それは、人間はみなそんなに強くないということ。化粧をしながら出番を待つ前は、不安や孤独、自分の醜さを 嘆く心が垣間見える。しかし同時に、成功する人たちは、自分の見せ方を知っている。 メイクを、外見や欠点を補い自分の利点を最大限に引き上げる道具としている。若くてもしっかりした大人の 顔を持ち、顔に芯がある人は、何かに情熱をかたむけ、自分への厳しさ持つことがその引き締まった大人の顔を つくりだしている。 自分の外見的特徴をつかむことは、人に自分をどう伝えるかを考える上でとても大切なこと。 そして、自分の顔をよくするには自分の顔を好きになること。 俳優さんたちとのエピソードから、印象的なことをいくつかご紹介します。 三木のり平さんの言葉 「化粧は、いかに心を切り替えるか」 ということ。 吉永さゆりさんの魅力 いつも自分の意見を持ち、そして他人の意見を聞く取り入れる。 美しさの向こうにある生き方があらわれている。 和食の料理人 辻嘉一さんの言葉: 「健康な身体で美しいものに感動して憧れるような毎日でないと、 味の加減がわからない」 舞踊家大野一雄さんの踊りを見た遠藤周作さんの言葉 「人間の汚さ、卑しさを知る人は、ほんとうに美しいもの、心に訴えるものができる」 ソフィア・ローレンのマネージャーの話 「スタイルは抜群によかったけれど、個性が強すぎてバランスが悪かった顔は、メイクで 個性をよいほうへ引っ張りあげ作り上げたもの。ソフィア・ローレンの美しさは、自身が 学び育た自らの美しさ」 「一流の顔」2004年 岡野宏 幻冬舎 写真:「終わりのないたび。」 吉田都 阪急コミュニケーションズ より |
| [☆バレエコラム22] - バレエと化粧 - |
![]() 写真は 「バレエが選んだ男」熊川哲也 ダンスマガジン ルネサンス(文芸復興)、14 -16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的・ 文化的な様々な運動のこと。 ルネサンス Renaissance は、フランス語で再生という意味。 19世紀、フランスの歴史家ミシュレによって、学問的に認知されるようになりました。 ルネサンス期に、書かれた美人の条件をご紹介します。 13世紀イタリアの詩人リカルド・フールニヴァル: 髪は黄金の糸 眼はタカの眼 まつげは茶色で弓なり 口は小さく庭のバラのように赤く 歯は白く 手はヒマの実より美しく 爪は繊細でまっすぐ 15世紀の詩人ピストーイア: 母から娘への教え 化粧をしないで外へ出てはいけません。 あなたは少しばかり色が黒いから。 口を開きなさい、歯をきれいにしてあげるから。 乳房を張り出しなさい。 この白い布をかぶりなさい。 そしてあなたの顔に香料をふりかけなさい。 女性の美しさが文学として表現されるようになったのは13−14世紀。 バレエがイタリアからフランスへ伝わったように、イタリア風おしゃれをフランスに伝えたのは、1533年に メディチ家からフランスのオルレアン公(後のアンリ二世)へ嫁いだカトリーヌ・ド・メディチスでした。 この頃、化粧はイタリアだけの風習であったので、他国からきた者にはとても奇妙に見えたそうです。 16世紀イギリス。エリザベス一世は、イタリアの流行を取り入れ化粧をしていました。 そのエリザベス一世の時代の終わり頃から作品を書き始めたシェークスピアは、化粧することを ペインティングと書いています。それは、化粧することが色をぬることであったということです。 17世紀になり、イギリス詩人リチャード・クラショーにより化粧がメイク・アップと呼ばれるようになりました。 [現代女性にとっての美しさとは]という、ポーラ文化研究所2005年のレポートでは、「女性の美しさ」を表すのに 1番重要なことは「きちんとしたマナー」という結果がでました。 内面的魅力を表現できること、そして、メーク、ファッションは若さよりも自分らしさへの志向があり、35歳が、 エイジフリー志向へのターニングポイントとなっていると報告されました。 「私は化粧する女が好きです。そこには、虚構によって現実を乗り切ろうとするエネルギーが感じられます。」 詩人 寺山修司が遺した言葉です。 (「両手いっぱいの言葉」文化出版局) 参考文献 「化粧 おしゃれの文化史」春山行夫 平凡社1988年 |
| [☆バレエコラム23] - 化粧の変遷 - |
![]() カトリーヌ・メディチ(1519.4/13-1589.1/5)がイタリアからフランスへ伝えた化粧 数百人の従者を連れ アンリ2世(在位1547-1559)に嫁いだカトリーヌがフランスへ運んだもの: ハイヒール、パラソル、フォーク、アイスクリーム、リキュール、テーブルマナー、バレエ そしてお化粧。 17世紀始めには、つけぼくろの風習がありました。肌とのコントラストで色白に見える効果があるとのこと。 ムーシュ、フランス語でハエのこと。ハエのつけぼくろがお洒落だったなんて・・・・・・つけぼくろの素材は黒い ビロード、黒や赤に染めた革、黒い絹布など。つけぼくろをダイヤで飾ることもありました。高貴な人は青い血が 流れているとされたことから、白い粉を塗った肌の上に青で血管を描いたりもしました。それはやはり地肌の白さを 際立たせるため。 1900年パリ万博。1909年頃からのバレエ・リュスから第一次世界大戦までの期間をベル・エポックと呼びます。 政治経済のグローバル化と相まって世界のファッションの流れが一体化し、モードの発信地パリでは、ファッション デザイナーが服や化粧の分野で大きな力を発揮するようになりました。 このバレエ・リュスでは、古代エジプト時代より途絶えていたアイメークが復活。千一夜を題材としたシェラザードの 舞台化粧で、東洋人のエキゾチックをアイライン、アイシャドー、マスカラで表現されました。そして、このメークが「ソワレ」 と呼ばれる背中や胸元が大きく開いたロングドレスをまとう社交界での夜の装いに取り入れられるようになりました。 時代のファッションがバレエに取り入れられ、そしてバレエが時代のファッションを作り出す。 リップスティックは、1915年に登場し、5年で世界に広まり、1920年には、ネイルエナメルが登場。そして、 ボブヘア、ショートヘアの誕生は、戦争に出る男性の変わりに仕事をこなすための必要性から生じた、 それまでの束縛から解放された女性の意識の象徴でした。 日本の化粧は、隠す化粧として発展してきました。眉を剃り、決まった形の眉をもとの眉とは違う位置に描く。 それは、表情を隠します。お歯黒。縄文時代からあったといわれるこの風習は、平安時代の国風文化の下では、 貴族は成人の証にお歯黒をしました。お歯黒をした口に唇の内側に紅をのせる。江戸時代には女性、そして都市部の 武家では結婚あるいは出産を機にお歯黒をするようになりました。鉄漿(おはぐろ)も表情を隠します。 やがて、文明開化を経て西洋の文化が流れ込み、日本のお化粧も変化していきました。 自分を表現し、演出するメイクに。 エリザベステイラー(写真)は「エリザベステイラーになるために5時間かかる」と言われていました。 |
| [☆バレエコラム24] - 精霊とトウシューズ - |
![]() 西洋には古くから、地・水・火・風に精霊が宿ると考えられていました。 地 Gnome、水 Undine、火 Salamander、風 Sylph 松任谷由実の「78(Seventy-eight)」に、4大精霊が歌われています。78は、タロットカードの枚数。 地・水・火・風はそれぞれ、硬貨、杯、棒、剣と解釈されるとのこと。 ♪ 太古の昔になくした全ての力をここに取り戻す風のシルフィ、大地のグノメ、火のサラマンテル、 水のオンディーヌ精霊を呼ぶ・・・・・ http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=13412 4つの精霊の中で水の精 Undeine、Ondin だけが美しい姿を持つことができるのだそうです。 水の精オンディーヌ(Undeine-ドイツ語、Ondine-フランス語) オンディーヌ。フレデリック・アシュトンがマーゴ・フォンティーンのために振り付けたバレエとしても有名です。 バレエ「オンディーヌ」は、ラシーヌの戯曲「敵同士の兄弟」を原作とし、1958年にイギリスで初演されました。 松崎すみ子バレエ公演「オンディーヌ」は平成13年度の文化庁芸術祭優秀賞を受賞しました。 タイトルロール、オンディーヌは下村由理恵さん。オンディーヌの誕生、水面を静かにすすむ妖精の佇まいをも 感じさせない繊細なパドブレ。 先日 Bunkamuraで催された、「ティアラ展」ではオンディーヌのティアラは、朱赤の珊瑚のティアラでした。 水のイメージが「珊瑚」それも濃い朱赤に象徴されるのが意外でした。 トウシューズの象徴。 マリー・タリオーニの踊り、父であるフィリッポ・タリオーニが振付けた1832年初演のラ・シルフィードがポワントでの 初めての作品といわれていますが、1810年頃からパリ、イタリア、ロシアなどでポワントでの舞台について書かれた ものが残っています。 ヨーロッパのロマン主義の中で、バレエ界でも、ギリシア、ローマ神話から離れ、階級を超えた困難な恋愛物語が 描かれるようになり、トウシューズ、ポワントがバレエで妖精、精霊物語の演出を可能にしたのです。 マリー・タリオーニは、風の精、シルフィーといわれています。 ラ・シルフィードの人気は、パリの街を駆け抜け、シルフィードという帽子、短い外套、日傘がデザインされました。 日本で最初にトウシューズを作ったのは、今年創業100周年を迎える靴の老舗メーカーの銀座ヨシノヤYoshinoya です。1931年のこと、当時の値段はバレエシューズ85銭、トウシューズ1円50銭。 |
| [☆バレエコラム25] - かぐや姫ー富士山−バレエ - |
![]() 「今は昔 竹取の翁ありける」で始まる「竹取物語」は日本最古の物語文学。 源氏物語に「物語の出で始めの祖(おや)」と記述があり、万葉集巻16には、「昔老翁(おきな)有り、竹取(たかとり)の 翁(をぢ)といふ・・」とあります。 月の世界へと戻ったかぐや姫が、帝へと置いていった不老不死の薬。二度と会うことのできない悲しみにはその薬は 役立たない、と帝は、一番高い駿河の国の山で燃やしてしまうよう命じます。その命を受けたたくさんの兵士が山に登った ので、「士に富む山」すなわち「富士山」と名がついたと。そしてまた、不死の薬を燃やした山、「不死の山」から 「富士の山」その煙は今でも雲の中へ立ち上っていることから「不尽の山」、「富士山」と諸説が伝えられています。 かぐや・・・8/16鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げ予定 月探査衛星「セレーネ」の愛称が、「かぐや」と決まり ました。セレーネは、月を回りながら1年間かけて15種類の観測機器で月面の地形や鉱物分布、重力などを調べます。 米アポロ計画以来の本格的な大型月探査衛星です。一般から公募された愛称は、かぐや、かぐやひめ、うさぎ、 げっこう等々。応募総数2,256、「かぐや」が1,701通で1位に輝きました。 バレエ「かぐや姫」日本舞踊史によると、1963年1/26 松尾バレエ団公演(東京文化会館)で公演が行われました。 台本・振付=川路明 振付=松尾明美 曲=小山清茂出演=松尾明美、薄井憲二等。 音楽から生まれたイリ・キリアン振付の「輝夜姫」は、1985年東京で「スターダンサーズ・バレエ団」により初演。 世界各地で100回もの公演が行われています。1988年オランダで「オランダ・フェスティヴァル」のオープニングとしてヨー ロッパで初演。その音楽は、1984年にドイツで初演された石井眞木の交響的組曲、「輝夜姫(かぐやひめ)」。 笙、ひちりき、龍笛の他、雅楽を始めとする邦楽の打楽器と、鍵盤打楽器からティンパニ、ゴングまでを含む西洋打楽器に よるアンサンブルによる、邦楽と洋楽のコラボレーション。 川端康成が編纂、現代語訳した「竹取物語」と、山形県最上村に 伝わる語部(かたりべ)の「かぐや姫」(収集・編纂:榛谷泰明)を参考に、作曲者によりバレエ台本が 書かれました。 レニングラード国立バレエの「竹取物語〜月から来た姫」は、2002年秋サンクトペテルブルクにて世界初演。 2003年1月日本で初演。バレエ作品の創造から作られました。振付は、同バレエ団芸術監督ニコライ・ボヤルチコフ。 シェークスピア作品他数々の文学作品をバレエ化。能、歌舞伎や文楽、和歌などの日本文化をも熱心に研究したその 演出は、詩情にあふれ、竹林は全身タイツ姿の男性群舞、月の光は女性群舞、飛鳥時代の彫像からヒントを得た天上の 楽士たち、幻想世界と地上界の橋渡しをする竹の精が登場します。かぐや姫と帝の最初の出会いでは、文楽を思わせる 演出で、黒子がかぐや姫をリフトします。 バレエシャンブルウエストのかぐや姫 −LUNA−2004年秋初演。第36回舞踊評論家協会賞を受賞したバレエシャン ブルウエストのオリジナル作品。この夏、清里バージョン「かぐや姫-LUNA-」としてフィールドバレエで上演されます。 かぐや姫は、月のシンボル、月の精霊。帝は日の出ずる処(日本)、太陽のシンボル。「竹取物語」では、かぐや姫が月に 帰るとき、あたりは太陽をしのぐ光に満たされたそうです。映画「未知との遭遇」も、竹取物語に構想の一案を得ているとい われています。 出会うことのない太陽と月のかなしいストーリー。羽衣を纏い、月世界に帰るかぐや姫、天女羽衣伝説は 日本各地だけでなく、世界各地に伝わり「白鳥の湖」のもととなっています。 写真は、イリ・キリアンの「輝夜姫」と竹林 |
| ☆バレエコラム26] - バレエ 扇 - |
![]() バレエの世界で扇 というと、ドン・キホーテのキトリの扇。 宿屋の娘、キトリの踊りに印象的に用いられる扇。 扇が、キトリの華やかさ、明るさ、溌剌としたキャラクターをより一層引き立てる効果を演出しています。 スペインの舞踊、フラメンコでは扇のことを、アバニコ abanico といいます。 日本で生まれた扇子。平安時代の国風文化が生んだ、檜扇(ひおうぎ)。扇子(扇)はあおぐ役割だけでなく、 儀礼や贈答、コミュニケーションの道具として用いられていました。和歌を書いて贈ったり、花を載せて贈ったりしたことが、 源氏物語など、多くの文学作品などに書かれています。武士階級では刀と同じ物と解釈され尊ばれました。 平家全盛期に、平清盛が始めた日宋貿易で、大和絵の扇が輸出され、大陸へ渡りました。そして、モンゴル帝国、 元(1400年代)の勢力にのりヨーロッパへ。英語のFAN( ファン)は、中国語で「うちわ」を(ファン)と読んだことから きています。 1867年に開催されたパリ万博。日本が参加した始めての万博に、徳川幕府、佐賀藩、薩摩藩が扇を含む 日本の伝統技術品を出品しました。この博覧会で、ジャポニズムはヨーロッパに大きな影響をもたらし、明治時代以後、 扇は日本から海外へ輸出されるようになります。 日本では、パチンと閉じる扇が良い扇とされています。要(かなめ)がかたくしっかりしているので、広げたり閉じたり することができます。西洋では逆に、要はざくっとしていて、サーっと 広がるのが良い扇とされています。 ヨーロッパに扇が定着した様子を示すように、扇を持つ女性が描かれた絵がたくさんあります。 その中のいくつかをご紹介します。 ルノワール 扇子を持つ女。 ピカソ 扇を持つ女(舞踏会の夜)。 藤島武二 黒扇。クリムト 扇と婦人。 モディリアーニ 扇を持つ女。 モネ ラ・ジャポネーズ。 モリゾ 舞踏会にて。 バレエでマイムがあるように、上流階級でアバニコによる会話があったそうです。 「扇言葉」 閉じて頬に・・・あなたを気に入った 顔を上向きで、胸の位置に・・・昼も夜も思っている 開いて、顔の横を通る・・・愛している 胸元であおぐ・・・独身、恋人がいない 開いた扇で目を隠す身振り・・・あなたが好きです 大きく開いた扇をゆっくり閉める身振り・・わたしは、あなたと結婚すると約束します バレエ作品としての扇、「ジャンヌの扇」という作品があります。 芸術、特に音楽に深い理解を示していた ジャンヌ・ルネ・デュボスト夫人の邸宅で開かれた内輪の夜会のときに、夫人に捧げられたパリ・オペラ座の 児童バレエの作品。 主演を努めたオデット・ジョワイユの言葉。 「私は、光の防止をかぶったように全身に照明を浴びながら、舞台に出て行きました。すると黒と金のオーケストラ ボックスから、プーランクの曲が泉のようにあふれて、内気な踊り子であった私の心を客席を埋めた2千の観客の 心とひとつにしてくれたのです。」 |
| 【☆バレエコラム27] - バレエ・リュスとニジンスキー - |
![]() バレエ・リュス(Ballet Russes) フランス語で、ロシアバレエ団 という意味。 20世紀初め、セルゲイ・ディアギレフ(Serge Diaghilev)の率いる バレエ・リュス(ロシアバレエ団)。 「ロシア」のフランス語読み「リュス」。こう呼ばれたこと自体が語っているように、ディアギレフ主宰のバレエ・リュスは パリを拠点として活動し、ロシア国内で公演したことはありません。 フランス文化華やかなベル・エポック時代に、バレエ・リュスは「ロシア」、「東洋」の異文化をバレエにのせて 紹介し、一大センセーショナルを巻き起こしました。そして、バレエを「総合芸術」に創りあげたのです。 芸術面においても、レオン・バクスト、アレクサンドル・ブノワ、そしてピカソ、マリー・ローランサン、ユトリロ、 ミロ、キリコ、ルオー、シャネルなど、たくさんの芸術家とのコラボレーションを繰り広げました。 総合芸術とは、ドイツ−ロマン派の作曲家、W. R. ワグナー(1813-1883)が提唱した概念。 「未来の総合芸術作品は一種のユートピア的形象であり、総合性は芸術ジャンルだけではなく、その創造に携わる 集団的協力者(芸術家)の総合でもある。個々の芸術も孤立から救い上げられて未来の芸術作品に 総合されるべきだ」 バレエは「バレエ・リュス」により、 舞踊、音楽、美術を統合した芸術となったのです。 パリ・オペラ座では、バレエだけでの公演の使用許可がおりず、パリ・シャトレ座で、1909年5月18日バレエ・リュス の初演が行われました。 「アルミードの館」、時はルイ14世時代。館の主フィエルボア侯爵は魔王。館には、美貌の侯爵夫人マドレーヌの 美しさを永劫に残すために織られたタピストリーが飾られています。その美しさは、まさにアルミード(魅惑の友人)。 そして、この館を訪れ、アルミードに心奪われるボージャンシイ子爵。魔王の魔術により、夢の中でアルミードと過ごし、 翌朝目覚めると、タピストリーの中にあったアルミードのスカーフが自分にかけられていることに気付き・・・・。 この作品で、「伝説のニジンスキー」ことワツラフ・ニジンスキー(Waslav Nijinsky)は奴隷を、 続く「ナイルの女王(後の作品−クレオパトラ−)の若者アムーンを演じます。 猫科の動物のような柔らかな肢体、空中に止まっているかのような華麗な跳躍、中性的あるいは両性的 身のこなし、で文字通り一夜にしてスターとなり、パリの街は「ニジンスキー」に熱狂します。 ニジンスキー(1888−1950年)ロシア キエフ生まれ。父も母もダンサーそしてポーランド人。9歳でロシア帝室 バレエ学校に入学。非西洋的な顔立ちのために「日本人」(イポーンツェク)と呼ばれ、からかわれたそうです。 生きながら伝説となったニジンスキー。新しいスターダンサーが登場するたびに、ニジンスキーの 再来といわれます。舞台映像は、ひとつも残っていません。 「くるぶしに特別な筋肉たついていた」、 「空中で止まっている」と言われたその跳躍力について聞かれ、 「簡単なことだよ、飛び上がったら止まればいいのだから」 と答えた、と。 |
| 【☆バレエコラム28] - バレエ・リュス(Ballet Russe) その2 - |
![]() ロシアのバレエ1909−1929年までパリを皮切りにヨーロッパを席捲したバレエ、バレエ以上の芸術。 1909年の初演作品は「アルミードの館」「イーゴリ公(韃靼人の踊り)」「饗宴」でした。 パリでは世界中から工業製品、文化芸術品が集まる万国博覧会が開催され、エネルギーにあふれ、世界の関心が 集まっていました。 ロシアの異国情緒、ロシアを通じて紹介されたオリエンタリズム。 パリは大きなブームが起こり、さまざまな形でバレエ・リュスとのコラボレーションを通じ、その後世界的に活躍した 多くの芸術家。 初めてトゥで立ち踊った男性バレエダンサー。ディアギレフのスター、ニジンスキー(1890年3/12-1950年4/8)の映像 はひとつも残されていません。ディアギレフがそうすることを拒んだから、といわれています。 映画「Nijinsky」1979年 それ以前に、ケン・ラッセルの企画、ルドルフ・ヌレエフ主演のプランがありました。 ヌレエフは、「ニジンスキー、このバレエの神を私ごときが・・・」と断り、実現しませんでした。 ハーバード・ロス監督作品。 現代の神話とも言われるニジンスキーを演じたのは、 ジョージ・デ・ラ・パナ(George de la Pena)。 ジョージ・バランシンのアメリカンバレエスクールを卒業し、アメリカン・バレエシアターでキャリアを積み、 今は、リンカーンセンター劇場研究所ディレクターです。 ニュー・ヨーク生まれ 両親はロシア人とアルゼンチン人。 映画では「遊戯Jeux, poeme danse (ドビッシーの書下ろし)」、 「シェラザード」、 「ペトルーシュカ Petrouchka (ストラヴィン スキー)」、「薔薇の精( ウェーバー)」を踊っています。 |
| 【☆バレエコラム29] - ルルベについて - |
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ルルべとは、ポタージュと交代させたもの、という意味から名付けられたものだそうです。 |
| 【☆バレエコラム30] - ルルベについて - |
![]() レヴェランスreverence、 最後のご挨拶 観客の拍手、コールに対する踊り手の答礼。 その作品やバレエダンサーのパーソナリティーで、レヴェランスの形や表情もさまざま。 ダンサーのレヴェランスに、また観客は感動を大きくし、たくさんのたくさんの拍手を捧げます。 バレリーナがひざを曲げ、上体を前方に傾け丁寧なお辞儀する。 このスタイルをしたのは、イタリアのバレリーナ、ヴィルギニア・ツッキです。 19世紀末から20世紀初め、ロシア帝室劇場は、ピエリーナ・レニャーニや、ヴィルギニア・ツッキなど イタリアからバレリーナを招きました。 その頃イタリアのバレエの技術がペテルブルグよりかなり進んでいたからです。 |